沿革|会社について 株式会社ダイヤモンドスターの沿革

ボウリングの火付け役が火消し役に

昭和37年(1962年)、創業者である堀池友治が、ボウリングをファミリースポーツとして日本に普及させるため、三井物産社長はじめ多くの財界著名人の後援を得てボウリングの機器設備の輸入販売会社を設立。

昭和39年(1964年)には直営ボウリング場を経営する(株)スターレーンを創立し、全国最大規模のボウリング場チェーンを組織する一方、日本初のプロボウラーを誕生させたり、米国プロ協会の公認試合としてのJapan Cupやミキモト真珠後援の米国女子プロによるパール・カップなどを開催し、テレビを通じ本物のボウリングを紹介した。 (同社は後に(株)ダイヤモンドスターと社名変更)

しかし、スポーツ・ボウリングをお茶の間へという努力は、日本の女子プロの活躍により思わぬ方向に独走し始めた。興味半分の番組がのべつ幕無しに放映され、それに合わせるようにボウリング場の数が急増していった。特に大企業の副業としての進出が激しかった。加熱する業界に危機を感じ自ら発行する市販専門誌などで警鐘を乱打したが、ブームはとどまる所を知らず、自ら行動することを決めた。ピークのさ中にボウリング場を売却し、業界に別れを告げたのだった。

スポーツ・ボウリング普及のための第一の布石

パパイヤ農園に投資

方向転換後の新しい仕事の一つが、ハワイのパパイヤ農園への投資であった。この投資は失敗であったが、原因が投資先の運営の拙さにあると判ったため、自ら農園と出荷工場の運営に乗り出すことになった。特に日本のニーズに合わせたフルーツを輸入するためには、畑を始めとする「ものづくり」に邁進せねばならず、これら一連の作業を「開発輸入」と名づけて、単なる輸出入とは一線を画することにした。国によっては直営農園を持つことは適切ではないが、パイロット・ファーム位は保有して、ものづくりの原点から深く関わることにしたのだ。

開墾前の直営パパイヤ農園での記念撮影

VHTマシンの先駆的開発

転機が訪れたのは1986年だった。多くの国が自国の農業を守るために他国からの害虫の侵入に神経を尖らせており、とりわけ何種類かのフルーツ・フライが大敵だったが、当時はEDBという非常に効力の高い殺虫剤によって対処していた。ところが、人体への薬害が問題となり、農水省から近々世界中で使用禁止になるので代替策を講じるよう忠告された。そして担当課長はこう付け加えた。「ホット・ウォーター・ディップと蒸気熱処理(VHT)がある。前者は安価だが信頼性にかける、後者は確実だが費用が嵩む」と。

我々は迷わずVHTを選び、旧知の関係にあった竹中工務店のプラント本部と共同でVHT施設の開発に着手した。装置の原型は禁止の1年半前に完成したが、果物を傷めず虫だけを46度以上の熱でやっつけるという作業は生やさしいものではないことが判った。体温計の目盛りに43度以上が無いように、そのような温度に長時間晒されるのはあらゆる生物に過酷なのである。しかし、多くの試行錯誤の末、期限直前にコンピューターによる制御ノウハウが完成し、パパイヤの蒸気熱処理に成功することが出来た。果物を輸出するために、コンピューターを駆使した大がかりな工場設備が必要だとは余人には想像できないかも知れない。

このVHT装置とノウハウの先駆的開発が、各国のトロピカル・フルーツを手がける契機となった。

VHTマシン